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月刊「BASSER」連載

「そして、今日も僕はキャストする。」 第1話

BASSER 3月号より
バスフィッシングと出合ってからそろそろ40年近くになろうとしている。

高校を卒業後、西武百貨店の中に売り場を持っていた釣具販売会社に就職していた私は、そこで、アメリカから輸入されたフィンガーリングスと言うプラグを初めて目にした。

当時(1968年頃)はルアーの使い方を理解している人などほとんどいなかったので、とにかく誰かが使ってみないと売れないぞ、という事になり、高校2年の時にスプーンでマスを釣ったことのあった私が「やりましょう」と申し出た。

そのころバスの情報といっても雑誌にはほとんど載っていない状態で、芦ノ湖と相模湖、そして津久井湖でも最近釣れるらしい、という程度だったが、“今までにない外国から来た新しい釣り”は、新しい物好きの私にはピッタリでとてもワクワクする出会いであった。

ロッドは5フィートに満たないグラスソリッドのベイトロッド(輸出用だったらしい)に国産のクローズドフェースリールをつけて使っていた。


注1
JR横浜線にある駅の名前。当時、数少ないバス釣場であった津久井湖の玄関口であり、マイカーを持たない若いアングラーたちはここから三ヶ木行きのバスに乗って向かった。
家から電車を乗り継ぎ「橋本駅(*注1)」からバスに乗って日赤対岸の水際に立つのはいつも8時半をまわったころで、それから4時頃までひたすらルアーを投げまくっていた気がする。

でもって、フィンガーリングスはと言うと・・・・、このルアー、ボディーは魚の形をしていて、頭に金属の回転ペラが付いていたので引いてくるとペラがパシャパシャと回るだけで本体はほとんど動かない。

「え〜こんなんで釣れるのかな〜?」と思いながら釣っているので、釣れるわけがない。挙句の果ては一緒に持っていったバイブレーションプラグ(名前やメーカーは分からず)のほうが魅力的で、こちらに思わず手が伸びてしまう始末。
結局は何事も起こらず終いであったが、皆が知らない新しい釣りを体験した喜びでオデコのことなどまったく気にはならなかった。

70年代も半ば近くになると、輸入されるバスプラグも少しづつ増えてきたのだがまだまだ皆、手探り状態だった。

注2
ヘドンを代表するバイブレーションプラグ。日本のバスフィッシング創成期において圧倒的な人気を誇った。イエローボディーは津久井湖や芦ノ湖では不可欠とされ、一時品切れ続きで入手が難しいほどだった。


注3
トビーなどで知られるアブ社のスプーン陣の一角として、トラウトねらいのアングラーに絶大な信頼を得ていた。しかし、バスフィッシングにおけるスプーンの存在が現在とは比較にならないほど大きかった当時、ダーデブル・ブランドと共にバス釣りに使われることも多く、事実よく釣れた。
なにしろ芦ノ湖へ行けば「スーパーソニック(*注2)持って来たか? ないのか! じゃー釣れねぇーよ。」、
相模湖へ行けば「ここはフラミンゴ(*注3)のシルバーじゃなきゃ釣れないぞ」とマジにボート屋さんに言われた時代だ。

こんなこと言われたら、どうにかして他のルアーで釣ってやろうと思うのが釣り人魂なんだが、釣り雑誌に情報が載っているわけでもないし、周りにルアーをやっている仲間もいない。いたとしても知識は自分とドッコイドッコイってことで、私の情報源はもっぱら神田神保町の洋書専門古本屋だった。

ここでは当時アメリカ軍の基地から流れてきた「Field & Stream」や「Outdoor Life」といった釣りとハンティング専門雑誌が1冊50円で売られていた。月に1度は顔を出し、雑誌の山からこれらの雑誌を拾い出しては買い漁っていた(時々、この中に米国版無修正の「Playboy」があって、こいつも一緒に仕入れて来ちゃいろいろとお世話になりました)。

とにかく、この中に載っているルアー関係の記事は必死になって読んで(正しくは見てかな?)理解しようとしたが、やはり一番の収穫はそこに載っている広告だった。これでたくさんのルアーメーカーを知ったし、スミスに紹介したりもした。レージーアイクもその1つ。

B.A.S.S.へも雑誌の中にあった申し込み書で入会したし、BassProShopsのカタログも取り寄せた。とくにBassProShopsのカタログは宝の山で見たこともないようなルアー達が沢山並んでいて私を誘った。

たしか1973年か1974年頃から手に入れていたと思うが、「何を買おうか?」と仲間うちで吟味する時間がとても楽しかったし、ルアーが到着してから次の休日までの間に箱(当時のルアーは箱入りが多かった)に書いてある使い方を訳しておいて、皆の前で披露しては悦に入っていた。
まあ、ほとんど聞き流されていたのはわかっていたが!

なかにはいい加減な説明が書いてあるのもあったが、そんなルアーに限って私にはとても魅力的だった。
けれども、辛抱づよく使っていたが、これと言った釣果に記憶はない。

このころ、バスは釣りたかったのだが、今振り返ってみると、半分はルアーを投げている、動かす、その行為自体が楽しかったと思う。

羽鳥(静夫)さんから、「タマちゃん、ルアー取り替え過ぎじゃないの?」とよく言われていたが、飽きっぽい性格も手伝って、取っ替え引っ替えいろいろなルアーを投げては喜んでいた。
そんな時に限ってバスがアタックしてくるものだから、思わず立ち上がってしまう・・・。するとバレる。
だから一時期私についたあだ名は「立ちバラの玉」だった。でもこの時期にたくさんのルアーを使った経験が後に財産となって仕事に大変役立った。

トップウォーターとの出会いはこうだ。あるとき仲間と千葉の雄蛇ヶ池へ行ったら、そこで則弘祐さんと乾孝成さんに出会った。そして桟橋で手ほどきを受けた。

ペンシルとミノーだったが、メインはタイガーを水面で躍らせるテクニックで「これでバスを水面へ誘い出すんだよ」と言いながらのサオさばきは見事で、ルアーが水面や水面直下でもがく様に見惚れてしまった。
我々もザラスプークやザラIIは持っていたが、使い方に確信がなく出番は少なかった。しかし、これ以降タイガーと共にメインのプラグとなっていった。

そして数週間後に羽鳥さんがあの名作、「ザラ III」を雄蛇ヶ池に持って来て、我々の前でその艶かしい動き披露した。

ここから、「トップウォーター・スミス・スタイル」の歴史が始まるのである。

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