| 月刊「BASSER」連載
 
 「そして、今日も僕はキャストする。」 第2話
 
 
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	| BASSER 4月号より 
   |  | 「昔はたくさん釣れたでしょ!」と良く聞かれるが、答えはいつも 
 「いや〜昔は釣れなかったよ」である。
 
 当時はバスの生態も知らなかったし、ルアーの種類も少なかったし、使い方も試行錯誤だったからだ。
 さらに釣り場も限られていて、バスの個体数そのものも少なかったように思う。
 
 芦ノ湖のように、当時バスが入ってからすでに長い歴史があった湖でも、一部の地元アングラーを除いて、なかなか「ツ抜け(*注1)」することができず、いつもひと桁であった。
 
 それが、ときどきふた桁釣れるようになるのは、ワームやジグが入ってきた後で、それも何とか使いこなせるようになってからであるが、我々のようにトップウォーターにこだわっていた者にとっては、5尾も釣れば「大漁」で、たいがいは1〜2尾かオデコであった。
 
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 注1●
 釣れた魚の数がふた桁になったこと。数を数えるとき、「ひとつ・・・ふたつ・・・みっつ・・・ここのつ」と、ひと桁のうちは語尾に「つ」が付くが、10に達すると「とう」と、それが外れることからこう呼ばれるようになった。
 |  | ある時、若林君(若林務=現JGFA事務局長)が、「バス釣りについてアメリカの文献にこんなことが載っていたよ!」と教えてくれた。 それは、
 「釣れるバスの総数の8割を2割の釣り人が釣っている。すなわち釣れるバスの残り2割を8割の釣り人で分けている。」
 というのである。
 まさに我々はこの残り8割の中に入っていたわけで、きっと今もここから抜け出せないでいるに違いない。
 
 なんたって2割の魚を皆で分け合っているのだから、自分に回ってくる数少ないバスは、出会い頭の(偶然の)1尾ではなく納得した1尾にしたいと思っていた。
 
 でも、今思うと納得した1尾というのは意外と記憶になく、むしろ、もう少しのところで掛け損なったり、グットサイズをバラした悔しい思い出ばかりを鮮明に覚えているから、きっとこういったことのほうが新たな意欲や技術の向上には役立つのだと思う。
 
 
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	| 注2● 房総半島の内陸部にある溜め池。人工的に作られた灌漑用、上水道用の池だが、1970年代にバスの生息が認められるようになると、バスフィッシングのメッカとしてシニアバサーの人気を集めた。当時、バス釣り場は、ダム湖や天然の山上湖など比較的クリアな水質のオープンウォーターが主体だったため、水生生物に覆われたリリーパッドの野池のパワーゲームがこの雄蛇ヶ池ケーススタディとして広がっていった。
 
 
 |  | 千葉の雄蛇ヶ池(*注2)へはよく行ったが、1日の過ごし方はこんな感じだった。当時、車を持っていなかったので仲間が家までピックアップに来てくれ、現地に着いて釣りを始めるのはいつも9時近くになってしまった。 
 木製の和船に2人で乗り込んで当時では珍しかったエレクトリックモーターを取り付ける。
 だいたいは4人か5人のグループだったから、2艘に分かれて、手前のワンドから釣るか、一番奥まで一気に行ってしまうかだったが、私は手前の大ヤツ、小ヤツのワンドから攻めるのが好きだった。
 
 ワンドの入り口の岬がよいスポットで、必ずバスが付いていたが、陽が高い時にコイツを引き出すのは至難の業であった。
 私たちはトップウォーターでしか釣らなかったわけではなく、昼間はバスプロショップスから取り寄せた新しいプラグや、羽鳥(静夫)さんの新作、お気に入りのスピードシャッド、ヘドンのタイガーなどを水面で躍らせる練習・・・と、いろいろなことにトライしながら釣っていた。
 
 とにかく、情報の少ない時代だったので、そこで釣れた経験は貴重で、皆に分け与えたし、私自身小売店で働いていたのでお客さんに使い方の説明もできた。
 私自身が釣った事のないルアーでも、聞いたり見たりした情報をもとに説明し、そのお客さんが「本当に釣れたよ!」と報告を入れてきたり、逆に新しい釣り方なども教えてくれたりと、個々の経験を情報として皆で共有することによって、結果が積み重なっていった。こうして試行錯誤であった釣り方が確信へと変わっていったのである。
 
 当時は「何とか協力してこの楽しい釣りを盛り上げて行こう」という意識をみんなが持っていたのだ。
 
 
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	| 注3● かつて、本格的な山岳縦走ファンからトレッキング派まで広く愛された、携帯用コンロ。ホワイトガソリンを燃料としたシングルバーナーで、堅牢な造りで知られた。
 
 注4●
 カナダで作られる、未脱脂羊毛で編み上げられたセーター。現地のカウチン族の女性がひとつひとつ手編みで仕上げたことからこの名で呼ばれるようになった。幾何学的な模様が編み込まれ、その柄は家系ごとに異なるといわれている。1970年代に日本に紹介されるとそのフォークロアな雰囲気が支持され、大流行となり、アウトドアトラディショナルスタイルの中心的なアイテムとなった。
 |  | 昼になるといつも同じ所に集合して船を繋ぎ合わせて食事となった。 アウトドアーブームのはしりの時期でもあったからか、フランスパン(それもドンクと決まっていた)をナイフで切って、そこにサラミを載せて食べるのがお気に入りで、ナイフはBuckかGerberのフォールディングナイフ。これにスベア123(*注3)のストーブでコーヒーを入れブラックで飲み、最後にパイプを燻らせて完成となる。
 カウチンセーター(*注4)を纏い、靴はハンティングブーツ。それがカッコイイのであった。
 
 そこではいろいろな話をした。その日のこと、羽鳥さんの新作ルアーの動かし方、ロッドの調子、こんなルアーが欲しい、バスの好きな色は、体調や仕事のこと、などなど、たわいもない会話をしながらゆったり過ごす時間が心地よく、昼休みは1時間をゆうに超えていた。
 
 3時を過ぎると目の色が変わりだし、4時から集中してトップウォーターゲームとなり、プラグを岸ギリギリになるべく軟らかく落とすことにこだわった。私は、うまく行かないと(もうそこでは出ないとわかっていても)、ピタッと決まるまで何回も同じ所ヘキャストを繰り返えすのが常であった。
 
 プラグは水に絡むように艶かしく動かすのをよしとしていた。そのためには「もっとこんなロッドが!」という話が出るようになり、やがてフライロッドを切断して自分たちで数種類のモデルを作るようになっていった。
 
 夕方5時には桟橋に戻った。いつも誰かはバスを釣っていたが全員が釣っていたことは記憶にない。
 
 ただ記憶にあるのは羽鳥さんだけはいつも釣っていたこと。それも自作プラグで!
 
 それでも現在のようにバスフィッシング=競うみたいな図式はなかったので、がっくり肩を落とす者もなく、釣れなくてもサバサバしていたし、羽鳥さんが次にどんなプラグを作って来るか?
 なんて勝手に想像したり、「釣れたルアーくださ〜い」なんてオネダリする者もいて結構賑やかだった。
 
 バスフィッシングという新しい釣りを体験しながら1日を楽しく過ごせた充実感とアメリカ文化に少し触れた一種の心地よさみたいなものを感じていたのは私だけだったのだろうか?
 
 
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