スーパーストライク

Topページへ製品情報へテクノロジースーパーストライクの足跡取扱店紹介スーパーストライククラブ


月刊「BASSER」連載

「そして、今日も僕はキャストする。」 第3話

BASSER 5月号より


注1
ダイワ精工が発表したグラス素材のルアー専用ロッドで、スピニングとベイトキャスティングモデルが用意されていた。輸入品に比べ安価だったことや、各地の釣具店で入手が可能だったことから高い人気を得た。スピードスティックは、北米のルー・チルドレ社が販売したルアーロッドであったが、生産は日本国内で行なわれ、後に日本でも入手可能になった。
ひとつの釣りにこだわってのめり込んで行くと、自分なりのスタイルができあがってきて、使うロッドの好みも変わってくることが往々にしてある。

今では市場に沢山のロッド、それもいろいろな長さ、素材、アクションのものがあるので、自分好みの1本を手に入れることがたやすいかもしれない。

しかし、1970年代、それも前半は大違い!

メーカーも種類も限られていたし、バスロッドと銘うったものは1本もなく、すべてはルアーロッドという名称で括られていた。

その頃売られていた国産のロッドでは、「レーク○○○○」(*注1)と、後ろに品番の入ったダイワのベイトロッドが価格も安くもっともポピュラーで、他には元来輸出用であったスピードスティックというロッドが国内販売されていた。
輸入品ではABU社のディプロマットや米国のガルシアがルアーマンのステータスと言われ、後に大人気となるフェンウィックが輸入され始めたところであった。

そしてスミスも少量ではあったが、あのフィリプソンとイーグルクローのロッドを販売していた。

私はといえば、これらのロッドはほとんど使ったのだが、トップウォーターにのめり込んでいたため、プラグを動かすための納得のゆくロッドがなく、先月も書いたようにフィリプソンのグラス製フライロッドを切って作った自作のパラボリックなロッドを多用していた(このロッドの流れが後のFGO−65へとなって行く)。

このころから、バス釣りをメインに考えた本格的なロッドを最新のカーボン素材も使い、軽さも追求して作ってみたいという願望が生まれていったが、当時、日本のメーカーにはバスロッドの専門知識を持った技術者が少なく、また、ルートもなかったので、結局、米国のラミグラス社からブランクを取り寄せ日本で組み立てることになった。

注2
日本におけるバスフィッシングの盛りあがりに呼応しし、スミスが発表したバスロッドシリーズの名称。それまでのルアーロッドは、長さやウエイト負荷、アクションで分けられ、大まかな用途分けがなされるケースがほとんどだったが、スーパーストライカーでは、モデルごとに、トップウォーター用、ワーム用などと用途別の明確な性格づけとそれに応じた設計を施し、「パワフルワーミング」などサブネームにそれを反映させていた。我が国初のシステムロッドシリーズとして高い人気を誇り、後にスーパーストライクと名を変える。
こうしてできあがったのが “スーパーストライカー”(*注2)。
1978年のことである。

初年度の商品群の中にGO−102があるが、実はこのロッドだけは特別で、原型のベースはカーボンのフライロッドである。
当時、すでに日本のバスフィッシングのリーダーであったN氏と鈴木君(現スミス社長)がフライロッドを切ったり貼ったりして作り上げた日本初(たぶん世界初かも?)のオリジナルトップウォーター専用ロッドなのである。

しかし、本当の意味で、それらがシステムとしてラインアップされた日本初のバスロッドシリーズになっていくのは1979年からである。

そのきっかけは・・・・

1977年の暮れから翌正月にかけて、私や鈴木君、N氏も含め9人の仲間でサンディエゴからオブレゴン(メキシコ)へのバス釣りツアーに出かけた。
最初に訪れたサンディエゴでは、地元のショップに集うバスマンたちがガイドしてくれることになった。彼らは各々にバスボートを引いて集まってきた。我々は皆、本格的バスボートを見るのも乗るのも初めてで、しかもボートランチに繋がれた色とりどりのバスボートの美しさと、そのボートに乗って釣りができる嬉しさで舞い上がっていた。

私はウォーリーというショップの若いマネージャーのボートに乗った。猛スピードで目当てのエリアへ向うのかと思ったが、湖の速度規制があるとかで、フルスロットルにはしなかった。それでもそのエリアへはほどなくして着いた。彼はボートのストレージを開けてロッドを5本も取り出した。
今では当たり前のように思える事だが、当時日本ではほとんどの人が1本で何でもこなしていたし、私もトップウォーター用をプラスしても2本程度だったので少々驚いた。

この季節は寒くトップでは釣れないとのことで、エレキで流しながらクランクベイトをストラクチャーに正確にキャストしながら釣っていった。私もアキュラシーには自信があったので、負けじとバルサ50をキャストし続け最初のバスをヒットすることができた。

彼は私のキャストは正確ですばらしいと褒めてくれ、このロッドを使ってみろと言って自分のロッドを手渡してくれた。

最初の一投目はボートから5mぐらいの水面を直撃した。次も同じようなのもであった。彼がキャストしていた時はロッドが綺麗に曲がり、ルアーはライナーとなって飛んでいったのだが、私が使うとうまく曲がらない、したがって思うように飛ばないのである。
つまり、パワーが違いすぎてロッドを使いこなせないのだ。確かに彼らは大きいし腕も太い。力も有る。そして我々はすべてにおいて彼らよりも劣る。

だから必然的にロッドは違わなければならないし、使いこなせなければ面白くないんだと実感した。

彼らすべてのボートには、ワームの付いているロッド、クランクベイトの付いているロッド、スピナーベイトの付いているロッドが用意されていて、ルアーを付け替えるのではなく、ロッドごと取り替えていた。
ウォーリーは私になぜそうしているのかを、ロッドのアクションの違いを見せながら説明してくれた。
私は彼の説明の半分ぐらいしか理解できていなかったのかも知れないが、それで充分だった。

このサンディエゴでの経験は日本に戻ってからのサオ作りに大きく影響を与え、スーパーストライカーの方向性を決定する基礎となった。

すなわち、ロッドは日本人の体力にあった使いやすい物でなければならない。だから、外国から素材を仕入れるよりも日本で作ったほうがいい。

それは、日本のフィールドに合った仕様で、軽さを追求したカーボンと、釣り味や粘りを重視したグラスをモデルに応じて選ぶ。

使うルアーによるアクションの違いや、使っていて心地さや楽しさを感じられるようなロッドを目指したのである。

しかし、当時はまだカーボンも新しい素材であったため、種類も限られていたし、工場の設備にも問題があったのか、思うようにできあがらないことも多く、開発にはずいぶん時間が掛かってしまった。

ボートによるバスフィッシングの将来性を見据え、ロッドを用途別に細分化したバスロッドシリーズ ”スーパーストライカー”の、一応の完成は1980年と言えるのではないだろうか。

[ 第2話へ ] 第4話へ]

(C) Copyright, 2007 SMITH LTD. All rights reserved.