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玉越アカデミー校長室 Vol.10
日記帳から甦った津久井湖の記憶
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先日、机の引き出しを整理していたら1冊の見覚えのある日記帳が出てきました。表紙のあちこちが剥がれているが、「DREAM DIARY」の文字だけは綺麗に残っていました。
40年近く前の記憶を蘇らせたノート。
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最初のページは1972年3月1日芦ノ湖の解禁から始まっていて、最後は1995年3月26日の亀山ダムで途切れている。元来飽きっぽい性格の為、日記などと言う毎日書くものが長続きした覚えはなく、案の定この日記も釣りに行った時だけ書いているのですが3年目あたりから手抜きが見られ、1978年、79年は無く、1980年の5月からまた書き始めている、と言った具合!
内容は、行った場所、水温、同行者、状況と釣果を簡単に書きとめてあるものですが、読んで行くと当時の記憶が少しづつ甦って来たり、また懐かしい名前も発見出来て、ついつい時間の立つのを忘れてしまいました。
72年当時、私は24歳と若かったのと、ルアーフィッシングと言う新しい釣りに燃えていたのだろう、毎週のように釣りに行っていて、数えて見たらこの年24回(延べ28日)釣行していて、其の内津久井湖へ10回も行っていました。
「津久井湖」と言えばやはり私にとってはバス釣りのルーツみたいな所で、初めてバスを釣ったのも津久井湖だったし、トップウォーターで初めて釣ったバスも津久井湖でした。
初めてのバス釣りは、高校を卒業後、1年間浪人してから西武百貨店の釣り具売り場で働き始めた2年後と記憶しているので、1969年?の6月頃だったと思います。同じ職場の仲間から、
「津久井湖にブラックバスがいて釣れるらしいよ。」
と言う情報を頼りに、電車とバスを乗り継いで、昼ごろには日赤対岸〈今の津久井湖観光ボートがあるあたり〉の畔にたどり着いた。持っていたルアーといえば、ちょうど其の年に勤めていた会社が輸入したフィンガーリングス(U.S.A.)の魚の形をしたルアーと、バイブレーション(メーカーは不明)と、其の頃既にやっていたマス釣り用のスプーンを数個だけ。
その当時の津久井湖にはまだ水没した立ち木があって、特に岸伝いに名手橋の方へ行くと立ち木が沢山並んでいて、いかにも釣れそうな雰囲気を醸し出していた。
しかし、この立ち木群でバスは釣ったことが無い・・・ボートからの釣りをするまでは。
なにぶんにも手持ちのルアーは限られていたので、バスは障害物の際にいるらしいと言う知識はあったがルアーを失いたくないとの思いが強くギリギリを攻めることが出来なかったからです。
また、この日赤対岸にはコンクリート製の建物の跡のような構造物(今も残っている)もあって良いポイントになっていたのですが、ここも余り釣れた記憶は無い。
兎に角、ルアーを沖に向って投げては巻き、少し移動して投げては巻きを繰り返しながら岸を何往復かして、夕方暗くなるまで釣ったが釣れる事はまれで、結局オデコで帰る、そんな釣行を何回も繰り返していましたが、嫌になることはありませんでした。
そういえば、このコンクリートの側ではこんな出会いがありました。百貨店の休日が木曜日であったので、釣りに行っても他の釣り人に会うことは少なかったうえに、その当時はルアー釣りなどほとんど知られていなかったので津久井湖でルアーマンに会うことなど皆無でした。しかしある時、私より年上のルアーマンが傍らに現れて何やら大きなプラグを投げては高速で巻き取り始めました。
見ていると手馴れた感じで明らかに私よりも経験も技術も上だと直ぐに分かりました。すると数投目、ルアーがかなり手前に来た時に突然竿が曲がり、水飛沫と共にバスがジャンプ、手馴れた竿さばきで見事にバスを釣り上げました。そして手早く針を外してリリース。私は呆然とこの光景を眺め心の中で、
「かっこいい〜」
と叫んだ。この時初めてバスは手前の、今で言うカケアガリにも居るんだな〜と理解したのです。
その後は何とかルアーが何なのか知りたいと思いましたが、声を掛けて聞く勇気が無かったので(とてもシャイでしたので!!)、1投ごとに、1歩、また1歩と彼に近づき、横目で懸命にルアーを観察し続けました。私の変な仕草に気味悪く思ったのか直ぐに何処かへ立ち去ってしまいましたが、ルアーのシルエットはしっかりと目に焼き付ける事が出来ました。
翌週、直ぐに京橋にあった老舗の「つるや釣具店」へ行き、色は違うが同じルアーを手にいれました。それがABUの「Hi−Lo」(ハイロー)でした。
この「つるや釣具店」に私が始めて行ったのは高校2年の時で、一歩店内に入ると格式を重んじる英国風の気品が感じられる店でした。店員さんも皆ジャケットにネクタイ着用で、私のような若僧には敷居の高い所だでしたが、何しろ私の知る限り、ここにしかルアーが置いてなかったので何度と無く足を運んでいました。
店員さんは皆とても紳士で、場違いな私を馬鹿にすることなく丁寧に対応してくれ、色々な事を教えていただきました。経営者が高齢になり店仕舞いしてしまいましたが、今ではこういう店が全く無くなってしまったのが残念に思います。
話がそれてしまいましたが、手に入れたハイロー、それから毎週のように津久井湖に通い何とかこれで釣りたいと投げまくったが中々バスを掛けることが出来ませんでした。たまたまバイブレーションに付け替えてキャストしていたらヒット!! 夢中でリールを巻いて釣り上げた25cmのバス、これが私の初バスとなってしまいました。
日記帳の1972年2ページ目は3月2日の津久井湖
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日記帳の1972年2ページ目は3月2日の津久井湖で、この時、三井大橋の津久井漁協からボートに乗ったとあるので、この年から津久井湖にボートが解禁になったのだと思う。ちなみにこの日はボーマーで1匹バラシ。翌週はオデコ、4月20日の3回目に43cmをアーボガスターで釣っている。
私の記憶では、ボートで釣りが出来るようになった年はとても良く釣れたと思っていたし、周囲にもそう話して来ましたが、日記を見ると余り釣っていない。たいがいは1匹で、一番釣った日で3匹です。オデコの日も何回かはあるし、そして実によくバラシているのが分かります。この頃からバラシ病があったのです。
また使っているルアーもディープダイブ系が主力で、トップウォーターの記録はほとんどありません。1973年の6月21日津久井湖の記述の中に
「夕方、サーフェースルアーを使ってみた。2度ルアーに飛び出たが、針掛りせずであった。合わせが早過ぎるのか、それとも遅いのか、どうも良く分からなかった」
と言うのがありました。私にもこんな時期があったんですよ!
私がトップウォーターにのめり込むきっかけの一因となった、あの則さんから雄蛇ヶ池で手解きを受ける1年半ほど前の時期でした。
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